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七夕の夜に、針に糸を通す。 [伝統文化]

前に記したように、中国では七夕のことを「乞巧(きっこう)」と言っていた。その乞巧が、日本に伝わったときは「七夕」ではなく、「棚機(たなばた)」と書かれていたようである。
それは、七夕に登場する織女(しゅくじょ)星ははた織りや裁縫の仕事、牽牛(けんぎゅう)星は農業の仕事をつかさどる星とされていたからのようだ。

その織女星にあやかってはた織りや裁縫が上達するようにと祈るようになった、と言われている。七夕の夜に庭先に祭壇を設け針など供え星に祈りを捧げ、月の光の下で針の糸を通すという、風習がいまでも中国にはあると聞く。

そのような七夕伝説が、日本に伝わったと思われるが、伝説をおもしろく結びつけPRするのは日本の企業等は得意なのだが、結びついていったという話しは聞かない。
織女星と牽牛星、天の川、上弦の月という想像を広げてくれる題材をフルに使ってメルヘンティックな世界に誘ってくれる「七夕」を、裁縫やはた織りなどの繊維業界が結びつけてないのはいささか解せぬ。

ちなみに中国では、七夕の夜、織女星に向かって針を月にかざし糸を通している絵が残されているようである。

絵はYahoo画像から転載
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七夕は、女性の節句。 [伝統文化]

七夕は、どの地方でもすでに終わっている。7月7日が、通常では七夕である。
ご存知のように、すべての暦(こよみ)は新暦で行われている。
その昔、旧暦で行われていた歳時や祭り事は、いまの新暦でいうと当然ながら季節のズレが生ずる。

自然の摂理に基づいて行われていた事が、新暦に準ずると違和感が生じる。そういう違和感を感じる祭り事の中で、七夕もそうである。新暦では7月7日であるが、旧暦にあてはめると通年8月10日前後となる。しかし、今年は閏年の関係で8月28日のようである。

いつもは8月10日前後に夜空を眺めると、もしかすると天の川と織姫星と彦星と上弦の月が見られるかもしれない。上弦の月があっての七夕のようだ。この時期が一番織姫星と彦星が接近する。しかし天の川を挟んでいるから逢うことはない。
そこで、彦星が上弦の月に乗って織姫に逢いに行く。そんな楽しい伝説がある。だから七夕は、上弦の月を入れ”七夕伝説”が成り立っているらしい。

さて、稽古で写真にあるお軸が掛かっていた。
これが七夕を表現するお軸 !?
賛を観ても画を観ても、七夕を想像させる要素が全く見あたらない。なら、画はなにか、ということから始まった。たぶん毬(まり)だろうと思える。なら、葉っぱのなんだろう、となるが思い当たるものが出てこない。
賛の漢詩を詠むと最後に「乞巧(きっこう)」と書かれてある。ご存知の方も多いだろうが、この言葉が、中国でいう七夕のこと。

七夕は、古代中国の祭り事である。それが日本に伝わり日本の風俗や地域にあった七夕に変化していった。中国はいまも七夕を祝う風習はあるようだ。日本のようにお供えをするらしい。中国の場合、女性のお祝い事のようである。裁縫手芸が上手になりますように、と。

賛に書いてある七針(針に七つの糸を通す穴がある)で七色毬をつくる。その毬を置いて、七夕の夜に天の川と2つの星、そして月をたらいに映し出し、梶の葉の裏に願い事を書いて浮かべるというお遊びがあるらしい。
だから、毬に梶の葉を添えて七夕を表現している。

解説を聞いていると一つの祭り事でも、時代や地域、また人の捉え方で内容が異なる。基本情報をおさえながらそれぞれが、それぞれの捉え方で楽しむのがいいのかも。

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"日本の心"が凝縮されている。 [伝統文化]

俗界から離れ、夜の花街で芸者さんをお座敷に呼んで遊ぶのは、お金持ちの旦那衆というイメージがある。
いまの時代も、昔より門戸が開かれたといえ一見さんは座敷にはあげてもらえない。花街のお茶屋さんは、昔から「第二のお家」という気持ちで御贔屓さんをおもてなしをしている。そのお家に見ず知らずの人をあげない、という習慣がある。最もな理屈である。

ここ数年、フェイスブックで京都祇園、金沢高知東京などなどの花街の芸者衆のお姉さんがたと繋がっている。芸者衆もSNS等で情報を発信し開かれた花街を紹介している。お陰で花街の伝統文化や習わし等に関心を寄せるひとりになっている。
昔、何度かお客さんに連れられ祇園のお茶屋さんに連れて行ってもらったことがあるが、俗界にたっぷり浸かっていた当時は、あのお遊びの粋さを知る由もなかった。

そのお茶屋さんには、御贔屓さんをおもてなしする芸者さんが、それぞれに所属している。芸者さんには、ご承知のとおり「舞妓」さんと「芸妓」さんがいる。舞妓さんは、十代からお茶屋さんに入り芸妓さんになるために数々の稽古事や行儀作法を学ぶ。その稽古事には、舞踊、お囃子(笛・小鼓・大鼓)、三味線に唄(長唄・常磐津・清元・小唄)、そしてお茶等々、かなり厳しい稽古が続くという。一つだけでも稽古するのが大変なのに、と思ってしまう。

晴れて21歳になると芸妓としてお店にでて、舞妓時代に鍛え磨かれた技能をお客様のお座敷で披露する。
芸妓さんは、舞妓時代といくつかの違いがある。その大きな違いはまずし頭。舞妓さんは地毛(自髪)で結うが、芸妓さんはかつらを被る。写真を見ると確かにそのようだ。
着物は、舞妓さんは中振り袖で肩を縫い上げ、帯は長くだらりと垂れ下げる。そしておこぼ(こっぽり)を履く。それに対して、芸妓さんは袖も短く帯は太鼓を結ぶのが普通のようだ。

この花街には、伝統文化が根強く伝承されている。古くからの慣習や習慣、そしてお座敷、その空間、芸者さんの衣装や外観、さらにおもてなしをする技能等々あげれば切りがないぼどある。
なによりもこの花街には、お客様をおもてなしする心、つまり"日本の心" が凝縮されている。
そんな花街の世界へ自分の意志でチャレンジする十代の女子が少し増えていると聞く。数少ない日本の伝統文化伝承者としてきばってほしいものである。

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家紋は、日本の文化。 [伝統文化]

「今日は、徳川家康が征夷大将軍になって、江戸幕府が成立した日」とヤフーのトップページに出ていた。その一分のあとに、徳川家の家紋のモチーフになった植物は?という追文があった。

この一文にひっかかり、家紋に少々興味をもつ人間としてはちょっと調べてみたくなった。時代を遡っていくと、当然ながら織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった天下を統一した武将が登場する。その武将が用いていた「家紋」というものにも興味がそそられる。

それぞれの武将のドラマをよく観てきた。その度に「家紋」が映像に流れ何気なく頭に残っている。とくに長い時代、日本を統治した徳川家の家紋が印象深い。ご存知「葵紋」である。
馴染みがあるのが "この紋どころが目に入らぬか" という台詞で有名な水戸光圀公の"黄門さん"。黄門さんが印籠を前に突きつけ悪者を退治する。その印籠に葵紋が描かれている。
そんな光景をよく観てきた者には「家紋」の意味がなんとなくわかっている。

徳川家の前は、豊臣、そしてその前が織田。この御三家が使った紋が写真の通りである。信長はいくつかの紋章を使っていたといわれているが、織田家としては、やはり「木瓜紋(もっこうもん)」。そして「桐紋」。その中でも「五三桐紋」は信長と所縁が深い。その家臣であった秀吉も「桐紋」を継承。しかし、豊臣という名を名乗ったときから、信長の桐の葉の枚数を変え「五七桐紋」を使ったといわれている。

そのあとに登場する家康が、三つ葉葵の葉をモチーフにした「葵紋」。いずれにしても家紋には植物の葉や花がモチーフになることが多い。自然が織りなす色や形などを観ると新しい何かが生まれてくるような気がする。
日本の伝統文化は、自然の中から生まれ育まれた宝物である。

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「露天神社」って、お初天神!? [伝統文化]

「露天神社(つゆてんじんしゃ)」といってもピンとくる人は少ない。大阪の方でも、え!、それどこ?っていいそうな神社名である。一方、「お初天神」といえば、大阪人なら常識! とまではいわないが、知名度は抜群だろう。

お初天神といえば「曾根崎心中」である。こういうと、他府県の方も知っているょ、といってくれそう。ご存知のとおり、1703年にこの神社境内で実際におこった、遊女「お初」と醤油屋の使用人「徳兵衛」の情死を題材に、当時の劇作家 近松門左衛門が「曾根崎心中」というタイトルで文楽人形劇化したものである。その「お初」の名をもじり「お初天神」と呼ばれるようになったようだ。

このお初天神は、大阪の梅田地域の東地区にあり、飲食店などが軒を連ねる夜の盛り場のど真ん中にある神社で、曾根崎お初天神通り商店街を抜けたところにある。
かつて2人の男女が永遠の愛を誓ったこの地ということで、男女のカップルや恋への成就を願い訪れる人がひっきりなしという。

この歳で恋の成就を願い参拝したわけではないが、正式名称ではなく「愛称・通称」で呼ばれている名所の独特の空気感に魅かれる。それは、本来の名称由来以外に、通称で呼ばれるストリーがそれぞれにある。そのストリーの方が、興味の矛先になっている。

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神の領域の入口「鳥居」噺。 [伝統文化]

ここ数年、日本文化に興味をもち海外から訪れる観光客を含め、神社にお参りする人が増えているような気がする。
神社の境内は神の領域とされていることからパワースポットとして、とくに若い女性たちにとって数年前から人気が急上昇しているようだ。

その神の領域の入口として建てられているのが「鳥居」。この「鳥居」にはいろんな種類がある。大別すると神明系と明神系の2系統あり、明神系のほうが装飾性が強いのが特徴である。その中でもイラストにあるように、伊勢神宮、靖国神社は神明系になる。

一方、明神系はよく見かける鳥居ではあるが、その中で、少し珍しい鳥居がある。例えば、広島 厳島神社の鳥居は「両部鳥居」といい、奈良 大神神社のは「三ツ鳥居(三輪鳥居)」という。

先日訪れた大阪市中央区九太郎町の坐摩神社が、この三ツ鳥居である。その理由は不明だが非常に興味深いものであった。ただ、資料を調べていくと、イラストにあるように、大きな鳥居の左右に一回り小さい鳥居がくっついており、4本の柱で支えられている形になっている。

坐摩神社の三ツ鳥居は、「三泉」を象徴しているという人もいる。坐摩神社のご祭神は「坐摩大神」で、“生井神(生命力のある井戸水の神)” “神井神(幸福と繁栄の井戸水の神)” “綱長井神(深く清らかな井戸水の神)” “波比祇神(屋敷神・庭の神)” “阿須波神(足の神・旅の神)” の五柱を総称して坐摩神社という。その中の「三泉」から三ツ鳥居になったということが文献に記してあった。

門外漢である小生では、資料から紐解いていくのはこの程度である。調べれば調べるほどド壷にはまりそうなので、ひとまず終えた。
また神社に参拝された時は、鳥居の下で一礼をするが、見上げてみるのも楽しいものかもしれない。

資料をひも解いていると思いもよらない大発見(?)があるかも。一つ披ろうすると、知っている人は今さらとおっしゃるかもしれないが読み流してください。

飲料メーカー大手「サントリー」の社名の由来。創業者の鳥居信治郎氏は、奈良 大神神社の熱心な氏子だった。この大神神社の鳥居は、前述したように「三ツ鳥居」。 “ツ” をとって「三鳥居」となり、カタカナで「サントリー」と命名された、という話し。

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鳥居のイラストはYahooから転載
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「渡辺津」を訪ね、ゆるり散策。 [伝統文化]

「渡辺津(わたなべのつ)」。この言葉を知っている方は、なかなかの大阪通と言えるのでなかろうか。
以前、大阪で地域の仕事をしていたころ耳にした言葉である。とくに私の名字が「渡辺」だからなおのこと関心をもった。

この「渡辺津」は、平安時代以前に遡るが、摂津国の旧淀川河口近くに存在した、瀬戸内海沿岸で最大級の港湾のことである。現在大阪市の中心部、旧淀川にかかる天満橋から天神橋の間くらいに位置するところである。
その当時、「渡辺津」を中心にした地域が人や物の流通が盛んだったようだ。瀬戸内海を通り四国九州へ、また渡辺津に上陸し堺や和歌山へ、そして熊野古道などへの流通の起点になっていた。その起点になった「渡辺津」の場所を示す記念石が、いまの天満橋の八軒家浜船着場から西に100mあたりに立っている。

当時栄えた「渡辺津」の地域に「坐摩(いかすり)神社」(通称:ざまじんじゃ)があった。「渡辺津」から200m南(中央区石町)にあった。現在は坐摩神社行宮の境外末社として鎮座されている。1958年に豊臣秀吉が、大阪城築城に際し、城域にあたるため、現在地の大阪市中央区久太郎町4丁目(南御堂西側)に遷座されたと記されていた。

お正月休み最後の5日、大阪に出かけた際に、以前から心に留めていた「渡辺津」、そしてその地域の守護神「坐摩神社」に参拝したいと立寄り、天満橋から本町までゆるりと散策してみた。

この「渡辺津」が、いま渡辺姓を名乗る方々のルーツの一つなっている。確かに、小生の実家の墓石にも渡辺紋様と同じ形のものが家紋として彫ってある。
長い間、大阪を仕事場にしていた小生(渡辺)としては、「渡辺津」を訪ねることで長い間の心につかえていたものが解かれた気分になった。

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天満橋 八軒家浜船着場から臨む天神橋方面

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天満橋 八軒家浜船着場から臨む天満橋方面

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その当時の「渡辺津」の船着場の賑わい

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八軒家浜船着場から西に200mの「渡辺津」地点

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当時、「渡辺津」界隈の守護神が祀られていた「坐摩神社」

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現在の「坐摩神社」。南御堂の西側

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住所は、大阪市中央区久太郎町4丁目渡辺3号

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不思議な力が宿る「さざれ石」。 [伝統文化]

神霊が依り憑く対象物はいくつかある。精霊や魂が宿ると考えられている自然崇拝が神道の根底にある。
魂が宿る対象物としては、石や木が多いとされている。神道では、その対象物を祀る信仰が古来からあり、その対象物に注連縄が飾られている。

先日訪れるた下鴨神社に、注連縄が飾られている「さざれ石」があった。ご承知のとおり、さざれ石は、日本国歌 君が代の歌詞にうたわれていることで知られている。
さざれ(細かい)石は文字通り、細かい石、小石の意である。君が代の歌詞では、それらの小石が巌(いわお)となり、さらにその石の上に苔が生えるまでの過程が、長い年月を表す比喩として使われている。

下鴨神社には、式年遷宮の祭事に「石拾い」という神事がある、と看板に書かれていた。さざれ石は、永遠の生命力と不思議な力が宿るという自然崇拝の証になっているのだろう。

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紅葉が残る糺の森に、白無垢の幸せ。 [伝統文化]

昨日、世界遺産 賀茂御祖神社(通称/下鴨神社)に行って来た。
いままで数多くの神社を訪れているが、下鴨神社は他の神社にない、何かを感じさせる雰囲気があった。それは、「糺の森」といわれる鎮守の森の素朴さと自然の強さのような気がした。
 
昨日は日和もよく結婚式が目白押し状態だった。式の後の写真撮影の現場に遭遇。
画になるのはやはり「花嫁さん」。白無垢の衣装に綿帽子は、平安時代からの定番の婚礼衣装。古来日本では、白は太陽の光の色と考えられ、神聖な色とされてきた。また、清浄無垢な純潔の色として、いずれの家風にも染まることができる衣装としていまも神前結婚式には白無垢の衣装に綿帽子、そして角隠しとなっている。
 
昨日の花嫁さんは、かんざしではなく白の蘭が黒髪に映えていた。
昨日、遭遇した花嫁さんの穏やかな顔が印象的だった。撮影まえにスタッフの方から紅を差してもらい、写真目線やほほ笑みのアドバイスをうけていた。
紅葉が残る境内に、白無垢の幸せがいっぱい広がっていた。

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「木遣り唄」が法要の開幕を告げる。 [伝統文化]

東本願寺境内に「木遣(きや)り唄」が響いた。

明治時代、東本願寺は火災で両堂が焼失した。その再建に全国から献木があった。
当時、巨木を山から運び出すときに巨大な橇(かんじき/そり)が使われいた。その際、大勢で運ぶときに威勢を揚げるための仕事唄として「木遣り唄」がうたわれていた。

昨日、境内では、真宗本廟両堂等御修復完了奉告法要のオープニングで、石川県の「加賀献木木遣り保存会」の方々による巨大丸太を橇で運ぶシーンが再現され、多くの信者の前で披ろうされた。

保存会の方だろ、丸太に跨り木遣り唄をうたい、引き手の気炎を揚げていた。荘厳な法要の開幕に相応しい伝承行事を観ることができた。

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