So-net無料ブログ作成
検索選択
伝統文化 ブログトップ
前の10件 | -

家紋は、日本の文化。 [伝統文化]

「今日は、徳川家康が征夷大将軍になって、江戸幕府が成立した日」とヤフーのトップページに出ていた。その一分のあとに、徳川家の家紋のモチーフになった植物は?という追文があった。

この一文にひっかかり、家紋に少々興味をもつ人間としてはちょっと調べてみたくなった。時代を遡っていくと、当然ながら織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった天下を統一した武将が登場する。その武将が用いていた「家紋」というものにも興味がそそられる。

それぞれの武将のドラマをよく観てきた。その度に「家紋」が映像に流れ何気なく頭に残っている。とくに長い時代、日本を統治した徳川家の家紋が印象深い。ご存知「葵紋」である。
馴染みがあるのが "この紋どころが目に入らぬか" という台詞で有名な水戸光圀公の"黄門さん"。黄門さんが印籠を前に突きつけ悪者を退治する。その印籠に葵紋が描かれている。
そんな光景をよく観てきた者には「家紋」の意味がなんとなくわかっている。

徳川家の前は、豊臣、そしてその前が織田。この御三家が使った紋が写真の通りである。信長はいくつかの紋章を使っていたといわれているが、織田家としては、やはり「木瓜紋(もっこうもん)」。そして「桐紋」。その中でも「五三桐紋」は信長と所縁が深い。その家臣であった秀吉も「桐紋」を継承。しかし、豊臣という名を名乗ったときから、信長の桐の葉の枚数を変え「五七桐紋」を使ったといわれている。

そのあとに登場する家康が、三つ葉葵の葉をモチーフにした「葵紋」。いずれにしても家紋には植物の葉や花がモチーフになることが多い。自然が織りなす色や形などを観ると新しい何かが生まれてくるような気がする。
日本の伝統文化は、自然の中から生まれ育まれた宝物である。

木瓜紋信長.jpg

五三桐紋信長.jpeg

五七桐紋.秀吉jpeg.jpeg

葵紋.jpg
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:アート

「露天神社」って、お初天神!? [伝統文化]

「露天神社(つゆてんじんしゃ)」といってもピンとくる人は少ない。大阪の方でも、え!、それどこ?っていいそうな神社名である。一方、「お初天神」といえば、大阪人なら常識! とまではいわないが、知名度は抜群だろう。

お初天神といえば「曾根崎心中」である。こういうと、他府県の方も知っているょ、といってくれそう。ご存知のとおり、1703年にこの神社境内で実際におこった、遊女「お初」と醤油屋の使用人「徳兵衛」の情死を題材に、当時の劇作家 近松門左衛門が「曾根崎心中」というタイトルで文楽人形劇化したものである。その「お初」の名をもじり「お初天神」と呼ばれるようになったようだ。

このお初天神は、大阪の梅田地域の東地区にあり、飲食店などが軒を連ねる夜の盛り場のど真ん中にある神社で、曾根崎お初天神通り商店街を抜けたところにある。
かつて2人の男女が永遠の愛を誓ったこの地ということで、男女のカップルや恋への成就を願い訪れる人がひっきりなしという。

この歳で恋の成就を願い参拝したわけではないが、正式名称ではなく「愛称・通称」で呼ばれている名所の独特の空気感に魅かれる。それは、本来の名称由来以外に、通称で呼ばれるストリーがそれぞれにある。そのストリーの方が、興味の矛先になっている。

お初1.jpg

お初2.jpg

お初3.JPG

お初5jpg.jpg

お初4.JPG
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:アート

神の領域の入口「鳥居」噺。 [伝統文化]

ここ数年、日本文化に興味をもち海外から訪れる観光客を含め、神社にお参りする人が増えているような気がする。
神社の境内は神の領域とされていることからパワースポットとして、とくに若い女性たちにとって数年前から人気が急上昇しているようだ。

その神の領域の入口として建てられているのが「鳥居」。この「鳥居」にはいろんな種類がある。大別すると神明系と明神系の2系統あり、明神系のほうが装飾性が強いのが特徴である。その中でもイラストにあるように、伊勢神宮、靖国神社は神明系になる。

一方、明神系はよく見かける鳥居ではあるが、その中で、少し珍しい鳥居がある。例えば、広島 厳島神社の鳥居は「両部鳥居」といい、奈良 大神神社のは「三ツ鳥居(三輪鳥居)」という。

先日訪れた大阪市中央区九太郎町の坐摩神社が、この三ツ鳥居である。その理由は不明だが非常に興味深いものであった。ただ、資料を調べていくと、イラストにあるように、大きな鳥居の左右に一回り小さい鳥居がくっついており、4本の柱で支えられている形になっている。

坐摩神社の三ツ鳥居は、「三泉」を象徴しているという人もいる。坐摩神社のご祭神は「坐摩大神」で、“生井神(生命力のある井戸水の神)” “神井神(幸福と繁栄の井戸水の神)” “綱長井神(深く清らかな井戸水の神)” “波比祇神(屋敷神・庭の神)” “阿須波神(足の神・旅の神)” の五柱を総称して坐摩神社という。その中の「三泉」から三ツ鳥居になったということが文献に記してあった。

門外漢である小生では、資料から紐解いていくのはこの程度である。調べれば調べるほどド壷にはまりそうなので、ひとまず終えた。
また神社に参拝された時は、鳥居の下で一礼をするが、見上げてみるのも楽しいものかもしれない。

資料をひも解いていると思いもよらない大発見(?)があるかも。一つ披ろうすると、知っている人は今さらとおっしゃるかもしれないが読み流してください。

飲料メーカー大手「サントリー」の社名の由来。創業者の鳥居信治郎氏は、奈良 大神神社の熱心な氏子だった。この大神神社の鳥居は、前述したように「三ツ鳥居」。 “ツ” をとって「三鳥居」となり、カタカナで「サントリー」と命名された、という話し。

坐摩4.jpg

81306024005765-1.jpg

3-1.tori640.jpg

鳥居のイラストはYahooから転載
nice!(2)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:アート

「渡辺津」を訪ね、ゆるり散策。 [伝統文化]

「渡辺津(わたなべのつ)」。この言葉を知っている方は、なかなかの大阪通と言えるのでなかろうか。
以前、大阪で地域の仕事をしていたころ耳にした言葉である。とくに私の名字が「渡辺」だからなおのこと関心をもった。

この「渡辺津」は、平安時代以前に遡るが、摂津国の旧淀川河口近くに存在した、瀬戸内海沿岸で最大級の港湾のことである。現在大阪市の中心部、旧淀川にかかる天満橋から天神橋の間くらいに位置するところである。
その当時、「渡辺津」を中心にした地域が人や物の流通が盛んだったようだ。瀬戸内海を通り四国九州へ、また渡辺津に上陸し堺や和歌山へ、そして熊野古道などへの流通の起点になっていた。その起点になった「渡辺津」の場所を示す記念石が、いまの天満橋の八軒家浜船着場から西に100mあたりに立っている。

当時栄えた「渡辺津」の地域に「坐摩(いかすり)神社」(通称:ざまじんじゃ)があった。「渡辺津」から200m南(中央区石町)にあった。現在は坐摩神社行宮の境外末社として鎮座されている。1958年に豊臣秀吉が、大阪城築城に際し、城域にあたるため、現在地の大阪市中央区久太郎町4丁目(南御堂西側)に遷座されたと記されていた。

お正月休み最後の5日、大阪に出かけた際に、以前から心に留めていた「渡辺津」、そしてその地域の守護神「坐摩神社」に参拝したいと立寄り、天満橋から本町までゆるりと散策してみた。

この「渡辺津」が、いま渡辺姓を名乗る方々のルーツの一つなっている。確かに、小生の実家の墓石にも渡辺紋様と同じ形のものが家紋として彫ってある。
長い間、大阪を仕事場にしていた小生(渡辺)としては、「渡辺津」を訪ねることで長い間の心につかえていたものが解かれた気分になった。

渡辺津1.JPG
天満橋 八軒家浜船着場から臨む天神橋方面

渡辺津2.JPG
天満橋 八軒家浜船着場から臨む天満橋方面

渡辺津4.JPG
その当時の「渡辺津」の船着場の賑わい

渡辺津6.JPG
八軒家浜船着場から西に200mの「渡辺津」地点

坐摩1.JPG
当時、「渡辺津」界隈の守護神が祀られていた「坐摩神社」

坐摩2.JPG

坐摩4.jpg
現在の「坐摩神社」。南御堂の西側

坐摩3.JPG

坐摩6.jpg
住所は、大阪市中央区久太郎町4丁目渡辺3号

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:アート

不思議な力が宿る「さざれ石」。 [伝統文化]

神霊が依り憑く対象物はいくつかある。精霊や魂が宿ると考えられている自然崇拝が神道の根底にある。
魂が宿る対象物としては、石や木が多いとされている。神道では、その対象物を祀る信仰が古来からあり、その対象物に注連縄が飾られている。

先日訪れるた下鴨神社に、注連縄が飾られている「さざれ石」があった。ご承知のとおり、さざれ石は、日本国歌 君が代の歌詞にうたわれていることで知られている。
さざれ(細かい)石は文字通り、細かい石、小石の意である。君が代の歌詞では、それらの小石が巌(いわお)となり、さらにその石の上に苔が生えるまでの過程が、長い年月を表す比喩として使われている。

下鴨神社には、式年遷宮の祭事に「石拾い」という神事がある、と看板に書かれていた。さざれ石は、永遠の生命力と不思議な力が宿るという自然崇拝の証になっているのだろう。

さざれ石.JPG
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:アート

紅葉が残る糺の森に、白無垢の幸せ。 [伝統文化]

昨日、世界遺産 賀茂御祖神社(通称/下鴨神社)に行って来た。
いままで数多くの神社を訪れているが、下鴨神社は他の神社にない、何かを感じさせる雰囲気があった。それは、「糺の森」といわれる鎮守の森の素朴さと自然の強さのような気がした。
 
昨日は日和もよく結婚式が目白押し状態だった。式の後の写真撮影の現場に遭遇。
画になるのはやはり「花嫁さん」。白無垢の衣装に綿帽子は、平安時代からの定番の婚礼衣装。古来日本では、白は太陽の光の色と考えられ、神聖な色とされてきた。また、清浄無垢な純潔の色として、いずれの家風にも染まることができる衣装としていまも神前結婚式には白無垢の衣装に綿帽子、そして角隠しとなっている。
 
昨日の花嫁さんは、かんざしではなく白の蘭が黒髪に映えていた。
昨日、遭遇した花嫁さんの穏やかな顔が印象的だった。撮影まえにスタッフの方から紅を差してもらい、写真目線やほほ笑みのアドバイスをうけていた。
紅葉が残る境内に、白無垢の幸せがいっぱい広がっていた。

下鴨3.jpg

下鴨7.jpg

下鴨4.jpg

下鴨5.JPG

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:アート

「木遣り唄」が法要の開幕を告げる。 [伝統文化]

東本願寺境内に「木遣(きや)り唄」が響いた。

明治時代、東本願寺は火災で両堂が焼失した。その再建に全国から献木があった。
当時、巨木を山から運び出すときに巨大な橇(かんじき/そり)が使われいた。その際、大勢で運ぶときに威勢を揚げるための仕事唄として「木遣り唄」がうたわれていた。

昨日、境内では、真宗本廟両堂等御修復完了奉告法要のオープニングで、石川県の「加賀献木木遣り保存会」の方々による巨大丸太を橇で運ぶシーンが再現され、多くの信者の前で披ろうされた。

保存会の方だろ、丸太に跨り木遣り唄をうたい、引き手の気炎を揚げていた。荘厳な法要の開幕に相応しい伝承行事を観ることができた。

丸太1.JPG
丸太2.JPG
丸太3.JPG
丸太4.JPG
法要1.JPG
法要2.JPG

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:アート

文人生活に欠かせない「書斎」とは!? [伝統文化]


先週の日曜日のテレビ番組、情熱大陸は元総理大臣「細川護煕」さんだった。政治家をきっぱりやめ芸術家に転身。それで未だに注目を集める。画家、書家として、そして陶芸家として大作を世に出しているからだ。世間の声には耳を傾けず、世俗を離れて我が路をいく平成の文人として生きておられる。

その日の午後に、京大名誉教授の西垣安比古先生の講演テーマ「18ー19世紀の朝鮮における文人の書斎とその世界」を聴いたばかりだ。そしてその夜に、細川護煕さんの文人生活をテレビを通してだけどほんの少しかいま見たが、非常に共通する暮らしスタイルが見えた。
その共通項といえるのが「書斎」である。朝鮮時代の文人の書斎は「書堂」といわれていた。その書堂には、中国でも日本でも女性は立ち入りできなかったようだ。その反面、男性は、女性の職域である台所には入らなかった。
細川さんは、日頃家族から離れ湯河原の別荘で暮らしておられるようだ。広大な敷地内に工房と住まいがある。その一室が寝室兼書斎。本を読んでいる時間が何よりも楽しいという。テレビからその感性のようなものが伝わってきた。

そういう世俗から離れた文人生活には小さくても書斎という空間があって、そこには本があり、書を嗜む道具一式が揃っている。そんな空間での生活に、むかしから「煎茶」は欠かせないものだった。喉を潤すこと以上に心の渇きを癒すものとして必須のものだった。その書斎に人を招き入れおもてなしするなんて考えられないのである。独りの世界に浸る、それが書斎なのである。

いまの時代に、そんな暮らしはなかなか出来そうにもない。自分の生き方がない限り落ち着く世界ではない。周りを気にせずに、経済的にも余裕があって、自身の生き方に揺るぎない考えをもってないと出来ない暮らしなのだろう。妄想の中でもそんな暮らしを描くと日頃も楽しくなるのではないだろうか。

書斎.jpg
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:アート

菊は、日の出ずる国家の象徴の原型!? [伝統文化]

一年の最後に咲く花は「菊」である。菊は、私にとっても馴染みの深い花である。子どものときに、父親がいつも庭で菊の手入れをしていたのをよく覚えている。年一度の尾道千光寺公園での菊人形大会の大輪菊などの展覧会に父親が出品していたせいもあって日常の中に菊があった。
大人になり、仕事関係では1990年の「花の万博」が大阪で開催されたときに、某国営放送の仕事で「花コンテスト」のアナウンス原稿を書く仕事をさせていただいたときに花への関心がさらに高まっていった。そのせいか、いまでも多少、花を見ると心が高鳴る。

一昨年、上京したおりに靖国神社に参拝した。そのとき、門扉に菊花紋の装飾がほどこされているのに驚いた。それは、靖国神社が昔でいう別格官弊社のひとつとして天皇家と深い係わりがあるからという理由らしい。
門扉をくぐるときに初めて菊の紋章をじっくり拝覧することができた。そのときに初めて菊花の紋章に興味を抱き、菊と皇室とのかかわり合い。なぜ、菊が国を象徴する花になったのか、などが気になっていた。

先日、鶴の話を書いたとき、写真の2羽の鶴の上に実は「菊花の御紋」が描かれている。それを見たときに、靖国神社に行ったときに思った「菊花紋」の、私の中での謎を2年越しになるが調べてみた。
菊花紋は、延命長寿の効用がある延命草とも呼ばれる菊を原型に、花弁が放射状に並んでいることから日の光にも例えられているので、日の出ずる国家の象徴として適している花になったようだ。国家の象徴である天皇家のシンボルとして創作されたという。この菊花紋が正式に皇室の紋章となったのは、鎌倉時代の後鳥羽上皇のとき。さらにそのあと、明治22年に菊花中心の円の直径と菊花全体の大きさの割合などが定義され、その後、大正15年に発布された皇室儀制令により菊の花は16葉、その花弁は八重菊の複弁。そして弁の端の弧は32と定められた、と書かれてあった。(ウィキペディア参照)
正式には少々かた苦しいが「十六弁八重表菊紋」というらしい。ちなみにパスポートの表紙にある御紋は、八重ではなくて「十六弁一重表菊紋」という。

もうすぐ9月。旧暦の9月は「菊月」と呼ばれていた。9月9日を重陽の節句というが、別名「菊の節句」ともいう。菊花の宴をで邪気を払い長命を祈った。「吉祥の鳥」である鶴と一緒に描かれている菊花紋も「吉祥文様」といわれている。
写真にある図柄をみて、鶴や菊への愛着が一層深くなっていく。

紋章.jpg
靖国.jpeg
パスポート.jpeg
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:アート

色模様に変化。 [伝統文化]

50年ぶりに京都の花街復活をめざす島原に「太夫」が誕生した。
その名は「葵太夫」。
2014年11月26日、禿(かむろ・太夫の身の回りを世話する おつきの童女)、振袖太夫(ふりそでたゆう・太夫の見習い、芸妓に対する舞妓のようなもの)の修行を経て誕生、現在、島原で活動する太夫として6人目である。

そもそも太夫というのは、豊臣秀吉が、都を活性化するためにつくった始まりとされている。とくに島原は江戸時代に栄えた花街で、いまでいうテーマパークのような存在だったようだ。町人商人はもちろんだが、武家や公家さんたちも散在したようだ。

そこの最大の人気キャラクターで高見の華的存在が、歌舞、茶道、華道、俳諧などの多彩な芸と豊かな教養を持つ芸妓の最高位が太夫である。
短い袖の豪華な打ち掛けに島原結びの帯といういでたちで、内八文字と呼ばれる独特の歩き方もさることながら、若々しい妖艶あふれる葵太夫独特の艶深さに惹かれる老若男女は多いようである。
ある方の写真に目がとまり、それ以来、小生の色模様にも変化が生じてきた。

写真は、小財郁男さん他
葵2.jpg葵1.jpg葵3.jpg葵トンボ.jpg葵笛.jpg
nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:アート
前の10件 | - 伝統文化 ブログトップ